No.2. 2024.6.3 石田幹之助の藏書印
石田幹之助の藏書印
石田邸を搜索した折に、机の廻りや引き出しなど色々と探したものの、ハンコというものは一つも出て來なかった。舊藏書にも藏書印を押したものがまったく見えないのである。
東洋文庫の理事會や評議員會の議事録には「以志だ」という楕圓形の三文判の印影は殘っているけれども、藏書印そのものはおろか藏書印を捺した書物が一つも見當たらないのは意外であった。
これは當時の學者、とりわけ東洋學者としてははなはだ珍しい。日本の東洋學が大なり小なり中國學と關連している以上、藏書印を用いないというのははなはだ稀なことに思える。
石田幹之助の號・室號
石田幹之助という人は、早くからモリソンに因んだ「杜村」という號を用い、石田宛の書信にも「杜村先生」などと書いてあるものが間々あるから、中國趣味から完全に隔絶していたのでもないように思われる。さらに自宅を「三松盦」あるいは「三樹菴」などと呼んでいたことも分かっている。
前者を用いた例として昭和七、八年頃に「三松盦讀書記」の作があり(はじめ『史學雜誌』所載、のち『東亞文化史叢考』に收録)、實際に印影も殘されている(圖一)。
この印記も雜誌などの册子上に捺してあるだけで、いわゆる書物には見えないから、藏書印と看做すには少し躊躇されるが、印影としては貴重なものかもしれない。
後者は印影はなく、「三樹菴」という手書き文字がノートの表紙に殘っているだけである。
藏書のしるし
では石田幹之助という人は自分の藏書に何のしるしも付けなかったのかというと、そうではなく、非常にしばしばIshidaというローマ字のサインを表紙の右肩、ハードカバーの場合には見返しのやはり右肩に書き込んである。この種の例は非常に多い(圖二)。
書體は大體において一定しているが、非常に初期の學生時分にはかなり凝った飾り文字を用いた場合もある。
その一例は『史學雜誌』の表紙に書き込まれたサインで(圖三)、ヨーロッパ中世の署名を思わせるものがある。