アジア人物伝 -歴史を織りなす人々
2024年5月25日(土)〜
2024年8月18日(日)
教科書や専門書など、私たちが歴史の流れを知るために手に取る情報は、国や地域別にまとめられていることが多いです。本展では、歴史に名を残した「人物」に着目して、日本をふくむアジア全域を対象とした広い視点で古代から近代までの歴史を通覧します。歴史上の人物が成したこととその影響を史料から見ていくことで、国、地域別ではないアジア史として、どのような時代の動きや特徴が浮かび上がってくるのかを探ってみましょう。そして、「あの人とこの人は同じ時代の人なのか!」といった気づきを楽しんでいただけたら幸いです。
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展示構成とみどころ
1.古代帝国の成立と広大な宗教圏の誕生(紀元前1800年頃~7世紀頃)
『ハンムラビ法典』 V.シェイル 1904年 パリ刊
現在のイラクとその周辺にあたるメソポタミアといわれる地域で、前1880年に都市バビロンを首都とするバビロン王国が誕生しました。歴代王のなかで特に有名なのが5代目のハンムラビです。ハンムラビ王の時代、バビロン王国はメソポタミア地域の諸国を征服、併合して覇権を握りました。その治世の末期に発布されたのが『ハンムラビ法典』です。法典の中心は判例集です。「目には目を」で知られる被害と同じ制裁を行う刑罰は、行き過ぎた報復を抑制する意図がありましたが、加害者の社会的地位によって刑罰は変化しました。
本書は、1902年にイラン西南部のスーサにてフランスの調査隊により発掘されたハンムラビ法典の石碑をフランス語で全訳したものです。
『アショーカ王刻文集』アレクサンダー・カニンガム 1877年 ロンドン刊
アショーカはマウリヤ朝第3代の王です。その治世に南端を除くインド亜大陸ほぼ全てとアフガニスタン南半を支配下に入れ、マウリヤ朝は最盛期を迎えました。アショーカは仏教を深く信仰し、武力ではなく普遍的な倫理(ダルマ)による統治を宣言しました。アショーカの勅令は国内各地に立てた石柱などに刻まれ、王による他の刻文とともに「アショーカ王碑文」として知られています。本書はそれらの碑文の集成です。
2.世界宗教と地域文化との融合と新たな社会階層の台頭(7世紀~13世紀頃)
『歴代君臣図像』15世紀成立、17世紀刊
武則天は中国史上、唯一の女性皇帝です。唐の太宗の後宮に入りますが、太宗が崩御後に次の高宗の皇后となりました。そして高宗が早くに亡くなると、太子を次々と失脚させ、自らが皇帝となり国号を「周」に改めました(武周革命)。歴代王朝の年代記『資治通鑑』では、周を正統な王朝として認めていないため、武則天は皇帝ではなくあくまで后としています。日本で浸透している「則天武后」という呼び名は、武則天の皇帝即位を否定するために作られた称号です。
一方、科挙による優秀な人材を採用するなど、政治手腕においては高く評価されています。15世紀頃の中国でつくられた肖像画集『歴代君臣図像』では、武則天の肖像に添えた人物評にて、彼女の「人を用いる才」を評価しています。
『小右記』藤原実資 982~1032年頃(江戸時代写本)
平安時代の日本では、天皇家と姻戚関係を結ぶなどして力をつけた貴族が権勢をふるいました。このような背景のもと、栄華を極めたのが藤原道長・頼通の親子です。天皇を補佐し、左大臣として、ときに代行者として政務を行う摂政・関白の地位について政権を掌握しました。 『小右記』は、平安中期の貴族・藤原実資が半世紀以上に渡ってつけた日記で、道長が「この世は自分のためにあるのだ」と詠んだ有名な歌が収録されています。
3.モンゴル帝国によるユーラシア統一からポスト・モンゴル時代へ(13世紀~15世紀)
『元朝秘史』13-14世紀頃成立 1903年刊
13世紀はじめ、現在のモンゴルとその周辺地域には複数の遊牧民の集団がありました。これらを統一し、史上最大の領域を有することになるモンゴル帝国を築いたのがチンギス・カンです。『元朝秘史』は、チンギス・カンの生涯とその後継者の治世を中心に、当時の社会構造や慣習などを記しています。モンゴル民族の間で口伝えされた物語のため、伝説も多く含まれ、モンゴル部族の始祖は「蒼き狼」と「青白き鹿」であるとしています。チンギス・カンは1211年に中央北部を支配していた金王朝と開戦し、1215年に金の都・燕京を陥落させました。
『御成敗式目』室町後期(15-16世紀)書写
『御成敗式目』は鎌倉時代に制定(1232年)された武家政権のための法令です。武家社会の慣習や道徳を元に制定され、幕府の政治的領域における、幕府管轄の裁判についての法的取り決めを明らかにしています。五十一カ条あるその内容は、神社仏閣を重んぜよという条文に始まり、幕府の組織、土地の所有売買、刑事関係の事項、相続など、武士が重視していることが盛り込まれています。この法令を制定した北条泰時は、官位昇進や所領の拡大などに関心を持たなかったという公平無私な姿から、名君、賢王とたたえられることが多かったようです。
4.強大な国家の繁栄と東西の接触(16~19世紀頃)
『歴史地図帳』シャトラン 1732年 パリ刊
バーブルはムガル帝国の初代君主です。かつて中央アジアから西アジアにかけて大帝国を築いたティムール(1336-1405)の子孫です。アフガニスタンのカブールを拠点に北インドへ進出し、1526年のパーニーパットの戦いでデリーを支配するロディー朝の軍に勝利し、ムガル帝国の端緒を築きました。
図は、フランスの地理学者による世界全域を対象とした歴史地図帳に掲載されたバーブルの肖像です。
『大清徳宗景皇帝実録』 20世紀
第11代皇帝・光緒帝(1871-1908)の在世時の実績の記録です。光緒帝は西太后の甥です。西太后は息子の同治帝(10代皇帝)が亡くなると幼い甥を即位させ、代わりに政治を仕切る「垂簾聴政」を始めました。本書からは、その実態がかい間見られます。諸外国の進出が加速するなか、光緒帝は改革を目指しますが、その動きを阻止するべく西太后たちが起こしたクーデター「戊戌の政変」(1898年)により監禁され、1908年に謎の死を遂げます。その翌日に西太后も亡くなりました。その後に即位したのが、清朝最後の皇帝・溥儀です。
5.近代的な国家形成の軌跡(19世紀~20世紀)
『大演説(ヌトゥク)』 ガーズィ・ムスタファ・ケマル 1927年
オスマン帝政の打倒者にしてトルコ共和国の建国者として知られるムスタファ・ケマル・アタテュルクは、共和国建国から4年たった1927年、与党「共和人民党」の大会で6日間連続の総計36時間にも及ぶ大演説を行って、トルコ独立戦争期と共和国建設期の出来事を総括しました。その演説はそのまま同年中に『大演説(ヌトゥク)』として出版され、トルコにおける公定トルコ革命史の基本文献となりました。