2026.08.31

No.4. 2026.8.31 牧野駒三のこと

牧野駒三のこと

 

大正六年八月二十九日 モリソン文庫受渡記念寫眞

大正六年八月二十九日モリソン文庫受渡記念写真

石田幹之助がモリソン文庫の引き取りに北京に赴いたのは大正六年(1917)の八月のことであったが、いざ書物の點檢を終了し、正式に受け渡しが行われたのが同月の二十九日(水)であった。その際にモリソン書庫の中で撮影された有名な寫眞が殘されている。
モリソンが中央に座し、左右に石田幹之助と小田切萬壽之助が椅子に腰かけ、その後ろに二人の人物が立っている。向かって左は美添(森川)鉉二、右は牧野駒三という署名がある。
美添鉉二は東京帝大の圖書館から石田の助手格で派遣されていた人物で、後に名古屋市立圖書館の司書を勤め、戰後は國會圖書館でも勤務した。この人については夏目漱石との關連でまま取り上げられることもあったりして、割合に材料も多く殘っているが、その横にいる牧野駒三についてはほとんど觸れられることがない。幸いに石田資料中に一、二興味深い材料を見つけたので、ここに取り上げて見ようと思う。

 

牧野駒三の手紙から

この寫眞に各人が署名をしたのは一體いつのことで、どういった經緯があったのであろうか。

撮影が行われたのは八月二十九日で良いとして、現像や印畫に多少の時間がかかることを考えると、少し時間が必要だった筈だ。その時間差を説明する材料に、上記牧野駒三から石田幹之助に宛てた九月八日付の手紙がある。その文面は以下の通り。

「拜啓、

先般來非常ニ御疲勞之段トは存申上候。偖而別封寫眞ハ記載之通リ小田切大人ヨリ井上頭取ヘ贈呈ノ爲メ各位之御署名ヲ求メラレタルモノニ有之候間何卒貴影下ニ可然御署名被成下候上急便ニテ銀行内氣付小生宛御返送被下度不取敢以寸紙御願申上候。委曲ハ拜顏之上申述候。頓首。

九月七日  牧野拜

石田學兄

通達公司貨物受領證及保險證券(東京迄)共々本日入手致シ一寸安心致候。」

石田幹之助宛九月八日付牧野駒三手紙

 

要するにこの署名入り寫眞は、小田切萬壽之助が、當時横濱正金銀行の頭取であった井上準之助に贈呈するためのものであり、牧野駒三が小田切の意を受けて石田に署名を依頼しているものと知れる。
井上は後、大正八年に日銀総裁、同十二年に第二次山本内閣の藏相、昭和四年にも濱口内閣で藏相を務めた。モリソン文庫の購入に當たっては、小田切萬壽之助とともに力を盡くし、大正十三年(1924)東洋文庫の開設とともに理事長に就任した。昭和七年二月、血盟團事件により暗殺されたが、東洋文庫にとっては重要人物の一人である。

五名全員が署名を濟ませたのは、九月七日以降の某日であったと推測されるが、ひょっとすると何等かの事情で石田の署名だけが遲れていて、牧野によるこの催促の手紙になった可能性もある。というのは美添鉉二は九月五日すでに北京を離れていることが、當時の石田のメモから分かるからで、美添はそれ以前に署名を終えていたとみられる。岩崎久彌によるモリソン文庫購入は當時大きな反響を呼び、新聞各紙にも報道された。大連の『遼東新聞』(九月四日)もこの寫眞を掲載しているが、署名は見えていない。署名が書き込まれる以前だったからである。いま東洋文庫に殘されている寫眞はすべて署名付きのもので、署名のない寫眞は却って殘されていない。

牧野駒三とは

さて牧野駒三とはどういう人であろうか。この當時、横濱正金銀行の北京支店で小田切萬壽之助の配下に居たことは間違いないが、調べて見ると、その後天津銀行の支配人として轉出し、大正十五年(1926)までその職にあったことが分かる。それ以降はあまりはっきりしたことは分からないが、昭和三年版の『海外商工人名録』の「支那 天津」の項に「輸出入業」としてその名が見えているから、天津で輸出入の自營業者であったことが知られるのみである。

ところで石田幹之助が昭和九年三月に東洋文庫主事を辭任したことはよく知られている。恐らくは石田在任當時から準備されていたものと推測するが、昭和十四年十一月に到って『東洋文庫十五年史』が公刊された。編輯に當たったのは岩井大慧。これも石田資料の中から見つけたものだが、その岩井が石田に宛てて、牧野駒三について尋ねている葉書がある。その箇所だけを拔き出すと「モリソン文庫引繼の寫眞に撮影ある牧野駒三とは如何なる人に有之候か別にタイトルを付ける必要なき人か、それとも三菱の北京の店の人、又ハ正金の店の人なんとか書かねバならぬかと存候。例の十五年史之寫眞の説明に候。お序の節一つお知らせ願上げ候」とある。牧野駒三がどこのどんな人であったかについて、岩井にも分からなかったことが窺える。

(高田時雄)